時の当主「望月 善長(もちづき ぜんちょう)」。 その名を代々襲名した歴代当主が、 守り続けてきた邸宅「蝦子(えびす)屋」。 数々の来賓をもてなし続けたこの館も、時代の流れとともに、 ただ静かに、空き家としての時間を重ねておりました。
しかし改修工事を終えた、2020年。
令和の時代にまたふたたび、「迎賓館えびす屋」として
客人をお迎えできることになりました。
東京から甲府盆地を経て、富士山を東に眺めながら、富士川沿いを南へ。
新宿から3時間でたどり着くのは、山梨の山峡に位置する身延(みのぶ)町。
そこには、仏教の聖地、日蓮宗総本山「身延山久遠寺」があります。
日本三大霊山でもある身延山久遠寺は、800年の歴史を迎え、関東随一の宿坊群を有し、
今もなお、修行の場、そして信仰の場としてその歴史と文化をつないでいます。
迎賓館えびす屋は、
この地で財を築いたかつての名家「望月家」が擁した築90年の邸宅を、
いまに甦らせた一棟貸しの宿です。
山の緑と川に面した開放的なオープンテラス。
そして、職人らの意匠残る純和室と、大正文化漂う洋室。
さらに、館内に設えられた現代の作家によるアート作品の数々が、
新たな風を吹き込みます。
新旧の文化が織りなすこの空間で、こだわりの食とお酒を楽しむひととき。
南天に浮かぶ雲のように、心ゆくまま、静謐で特別な休日を、身延の宿で。
身延山久遠寺「旧書院」の欄間を手掛けた後藤功祐作の欄間。
一枚2面で構成され、表裏異なる情景を表現した透かし彫り技術が見て取れる。
当時、えびす屋が蔵元であったことから、毎晩の酒盛りで後藤氏が急逝。
計4面の内、1面が未完の作として今に残っている。
当時の彫師の制作過程が垣間見える点から、
非常に希少価値の高い欄間である。
迎賓館えびす屋のルーツ「望月家」が先祖代々お祀りされてきた仏間。
三方を囲む襖は、細い葦で作られており、風通しがよく、当時は夏襖として使用されていた。細く繊細な技が必要なこの葦戸は、現在、制作できる職人が残っておらず、修復さえも難しいとされている。
日本家屋には珍しい、高い天井が特徴の洋室。木枠の出窓や照明、テーブルチェアセットが、当時のまま残されている。昭和初期のご当主が憧れた西洋が詰まった一室となっている。
デッキから川の方を眺めると、古めかしいコンクリート造りの防空壕が姿を現す。
太平洋戦争末期、アメリカ軍に劣勢を強いられていた日本軍は、当時の世界最高峰と称された戦闘機「零戦」の後継機である「烈風」の開発を進めていた。
当時、その研究チームに所属していた望月氏は、チームをえびす屋に招き、この防空壕で設計業務をしていたが、日本が敗戦。その後、GHQが占領した際、えびす屋にも「烈風」の資料が隠されていないかと進駐軍が圧しかけた。しかし、望月家はGHQを大歓迎。食事にお酒にたいそうもてなし、気分を良くした進駐軍は、極秘資料のことなどお構いなしに帰っていった。
寺町に残る唯一の戦争遺跡には、その時代を生きた人たちの物語が今尚語り継がれている。
迎賓館えびす屋を象徴するL字の廊下にある硝子戸は、不規則な波によって屈折した光をもたらす「大正硝子」と柔らかな光を取り入れる「結霜硝子」によって、レトロな仕上がりに施されている。
どちらの硝子も現在は生産しておらず、現品限りの貴重な作品。